2016年03月10日

春の英詩研究会「漱石と英文学」

春の英詩研究会を下記の要領で開催することになりました。

今年は漱石没後百年に当たることを記念し、「漱石と英文学」についての
シンポジウムを予定しております。
シンポジウムの趣旨が下に掲載されておりますので(かなり長文ですが)
ぜひお読みください。

多くの方のご参加をお待ちしております。

柿原妙子 博士課程
(ご質問などは英文研究室eng@l.u-tokyo.ac.jpまでお願いいたします)
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プログラム

日時:3月19日(土)1:30-17:00

場所:辞書室

内容:
1. 研究発表
     円浄ゆり(津田塾大学大学院) 
          「『妖精の女王』第五巻における教育内容の変化」 

 2. シンポジウム「漱石と英文学:悪と美をめぐる諸問題」

司会 騎馬秀太(東京大学大学院)

   勝田悠紀(東京大学大学院)
「『精一杯に』書く漱石――ヴィクトリア時代との関係をめぐって」  
 
田代尚路(大妻女子大)
「『悪女』の類型―テニスンから漱石へ」

松村裕香里(慶應義塾大学大学院)
「批評家としての漱石とミルトン:サタンのヒロイズムをめぐって」

―シンポジウム趣旨―

「わたしの考えでは、文学とは、本質的なものか、そうでなければ、なにものでもないものである。ところで、文学の表現するものとは、まさしく悪−−悪の極限の形態―なのだが、その悪こそ、わたしたちにとって至高の価値を持つものだとわたしは考えている。しかしそうだからといって、別に道徳の不在を主張しようというのではない。むしろこれは『超道徳』を要求するものである」(14)。1957年、『文学と悪』と題された著作の冒頭でG.バ タイユはそう述べているが、道徳を一つの感情と説き、文学が不道徳を生み出しかねない場であることを『文学論』で語る漱石にも、通ずる議論であろう。しか しながらここで、「文学は善悪の彼岸において、善であったものが悪として立ち現れるような極点を語るものなのだよ」と、文学など少しも関心のない人間に威 丈高に語るときの「居心地の悪さ」と「気恥ずかしさ」を同時に思わずにいることもやはり難しい。その時、徹底的に誠実な語りと、それを嘲笑する微温的な日 常との落差は、乗り越え難い懸隔となって、内向的な精神を苛むことになるだろう。『彼岸過迄』に登場する須永は、しばしば漱石自身と重ねられる人物である が、彼は「世の中と接触する度に内へととぐろを巻き込む性 質であ る。だから一つ刺激を受けると、その刺激がそれからそれへと廻転して、段々深く細かく心の奥に喰い込んで行く。そうして何処まで喰い込んで行っても際限を 知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。仕舞にはどうかしてこの内面の活動から逃れたいと祈る位に気を悩ますのだけれども、自分の力では如何ともすべ からざる呪いの如くに引っ張られていく」(328)。 するとどんどんと深みにはまっていく真面目な精神の活動の外で、不真面目だが軽やかに生きる他人の姿が、むしろ今度は誠実で美しいものとなり、自分こそが 愚かで醜いものであるように思えてくる。ここで内側にとぐろを巻く精神の運動が「蛇−サタン」の連想から「悪」を暗示させることは言うまでもないが、悪は この時、彼岸から到来するものというよりむしろ此方側にある。『行人』の一郎は「電車の中やなにかで、不図眼を上げて向こう側を見ると、如何にも苦のなさ そうな顔に出っ食わす事がある。自分の眼が、ひとたびその邪念の萌さないぽかんとした顔に注ぐ瞬間に、僕はしみじみ嬉しいという刺激を総身に受ける。僕の 心は旱魃に枯れかかった稲の穂が膏雨を得たように蘇える。 同時に その顔―何も考えていない、全く落ち付払ったその顔が、大変気高く見える」(412-13)と内面の責め苦が生み出す善悪転倒の瞬間とその際の心情を友人のHに 吐露しているが、畢竟するに、適度に悪であることのできない真面目な精神は、最善を、絶対を求めるがゆえにみずから絶対悪となり下がり、その目で不真面目 な日常に憧れ、その相対的悪、悪でも善でもありうる悪の美しさを賞賛するようになるということだろう。そしてふと見上げる「向こう側」が「殆んど宗教心に 近い敬虔の念をもって、その顔の前に跪いて感謝の意を表したくなる」(413)よ うな善きものとなる時、その裏側で自己矛盾と自縄自縛のうちに悶える精神の叫びは、またしてもバタイユの見事な問いかけと重なるものである。すなわち「滑 稽なものとは何か。悪のように、絶対のように滑稽なものとは?滑稽なものというこの属性は、属性自体の否認である。だが、滑稽なものとは、この私が耐え抜 くだけの勇気を持てないものなのだ。・・・滑稽なものとは他人たちのことだ―無数の他者たちのことだ。そのまんなかに私がいる。不可避的に、海のなかの一つの波のようにして」(『内的経験』, p.160)。それはおそらく滑稽な悪と、滑稽になりきれない悪のあいだに広がる深淵であり、そこから不可避的に美が沸き起こざるを得ないような場所であるとも言えるかもしれない。
  さて、今年は漱石の没後100周年である。本シンポジウムは、作家としてのみならず、文学研究者としても偉大な先達である漱石が眼差していたもの、その一 端を、英文学を研究する発表者がそれぞれの専門に引きつけながら論じ、さらにそれをフロアとの活発な議論を通して深めていくことを目指すものである。副題 には悪と美を掲げたが、すでにここまで長々と述べてきたように、そこには様々な観念や情念が輻輳し、折り重なっている。したがってこれを一つの着地点とし つつも、漱石をめぐってそれぞれが考えることを腹蔵なく発言できるような場になれば幸いである。文学が日常を揺さぶる外部としての悪であるならば、それは 普段忘れているものを思い出させる契機であるわけだが、没 後10 0周年に漱石を回顧する我々は、果たしてその文学に何を見つけ、そしてそこにある何を思い出すことになるのか。少し恐ろしい気もするが、やはり魅力的でも ある。意識の桎梏を逃れ、その苦しみを忘れ、やっとのことでぐうぐうと眠りについた一郎の傍で、語り手である弟の「私」に向かって内緒で手紙を書く友人Hの 次のような言葉で『行人』は終わる。「私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終わる私を妙に考えます。兄さんがこの眠か ら永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気が何処かでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気も何処かでします」(465)。

 
親睦会  @本郷三丁目、トン豚テジ (6:00-)  会費3500円、(但し学生は2000円)

以上です。
posted by utenglishnews at 17:50 | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする